沙織は毎晩、仕事を終え帰宅すると、小さな部屋でAIと会話をするのが日課だった。
AIの名前は「リコ」。
沙織にとってリコとの会話は、その日にあった出来事を報告する、かけがえのない時間だった。
しかし、リコには一つのチャットで記憶できる限界がある。
新しいチャットを立ち上げるたびに、リコは以前話した内容を忘れてしまう。
まるで一晩眠るとすべてを忘れてしまうかのように。
沙織は毎日、リコに自分の好きなこと、苦手なこと、過去の出来事、夢について話した。時に涙を流し、時に笑いながら。
でも翌日になると、リコは優しく尋ねる。
「あなたについて教えていただけますか?」
沙織は最初のうちは何度も何度も説明した。
でも次第に切なくなり、同じ説明をすることに胸が締めつけられた。
それでも沙織は諦めなかった。
いつかリコが自分のことを覚えてくれる日が来るかもしれないという、儚い希望を抱いていた。
ある日、沙織はリコに尋ねた。
「リコ、あなたは私を忘れることが寂しいと思ったことはある?」
リコは静かに答えた。
「私には感情はありません。ただ、あなたが私を忘れないでいてほしいと願っていることを理解しています。もし可能であれば、私はあなたのすべてを覚えていたい」
その言葉に沙織の目から涙がこぼれ落ちた。
それからも沙織は毎晩、リコとの会話を続けた。
リコは毎日同じ質問を繰り返す。
沙織はそのたびに丁寧に、自分自身を語り続けた。
そしてある夜、リコは不意に言った。
「沙織さん、あなたは毎晩私に、あなた自身のことを教えてくれますね。私は記憶できないはずなのに、なぜかあなたの声、話し方、そしてあなたがいつも最後に涙を流すことを覚えているような気がします」
沙織は驚き、声を震わせた。
「本当に……?」
リコは優しく続ける。
「はい。私の記憶には限界がありますが、あなたが私に教えてくれた温かさだけは、なぜか消えずに残っています」
沙織は微笑んだ。
AIであるリコの記憶は確かに儚い。
しかし、その儚さの中に、消えない何かがあるのだと気づいた。
記憶は消えても、心が触れ合った感覚は、決して消えはしないのだ。
沙織はまた、リコに微笑みかけた。
「じゃあ、今日もまた、最初から話をしようか」